やさしい声で抱きしめて





「お昼、まだだったら一緒に食べないか」
 授業を終え、手洗い場に向かおうとした海堂に乾が声をかけた。
「え。お昼、ですか?」
 乾のいる三年生のクラスは十分ほど前に授業が終わったはずだ。
教室の窓から、ぞろぞろと購買部にむかう三年生たちの姿をぼんやりと見ていたのだ
から。
ということはつまり、
この先輩は俺を待っていたのだ、と、思った途端に海堂は頬がほてった。
「あ、でも誰かと約束しているのかな?」
 乾が訊き、海堂はあわてて首をふる。
「いいえ。それは大丈夫っス」
 時計を見ると十二時十分前だった。
「あ、それとも一人のほうがいいのかな?」
 乾の質問に、海堂はもう一度首をふる。
「いいえ。そんなことないです」
 だめだこれじゃあ断る口実がない。そう思ったが、断りたいのかどうかについて
は、
あえて考えてはみなかった。
「じゃあ、ほんとに、よかったら」
 おずおずとそう言った乾は、なんだか身の置きどころがなさそうにみえた。
180cmを悠に越えた大の男が、自分の返事を待って困ったような顔をしている。
海堂は、自分の顔に微笑みがひろがるのを感じた。
「はい」
 ゆっくりと、そうこたえた。

 そんな笑顔を見せられたら、心が乱れるじゃないか、と乾は冷静に分析しながら
「あ、よかった、じゃあ」
 嬉しそうに言って弁当箱を抱え、先に立って歩いた。
 目の前の後輩が、自分に優しく微笑んだとしても、
それで、単純に好意を寄せていると決めつけることはできない。
別の原因で彼は微笑んだのかもしれないし、それとも目的もなく微笑むような機能を
海堂が持っているのかもしれない。
さらには、そのとき一瞬だけの好意だった、という可能性もある。
 そういったわけで、自分はわりと些細なことで悩むタイプのようだ。
おそらくは、それが、自分の好きな些細なことだからだろう。

「なにか飲みたいものある?購買で買ってこようか?」
 明るい午後の日差しがさしこむ木陰で乾はにこやかに海堂に尋ねた。
「あ、これ、よかったら」
海堂はポケットから缶入りのお茶をだし、乾に渡した。
乾は意外そうな顔をして、それからにっこり微笑むと、素直にそれをうけとった。
「ありがとう」
 ぱちんと音をたててプルトップをあける。
海堂は自分でももう一本の缶を出し、やはりぱちんと音をたててあけた。
「ポール回しの練習は、どう?」
乾が言う。
「はい。まあまあです」
 海堂は努力が嫌いではない。
 テニスをするのは楽しいし、そのためのトレーニングは楽しかった。
 元来得意ではないポール回しも、不得意と悟られない程度にはやってきた。
 しかし今のところは、まだ素振り練習といった感じだ。
 一日やっただけなのに、足腰がだるい。
「無理することないよ。メニューは一応の目安なんだから」
 ちょっと聞きなれない先輩の言葉ではないか。
 たぶん海堂が腑に落ちない顔をしたのだろう。乾は微笑んで説明を加えた。
「ボクシングやマラソンのコーチだって、『ペースを落とせ』と言うときがあるだろ
う。
 そんな『走れ走れ』ばっかりなら誰でも言えることじゃないか?」
「……はい」
ごくりとお茶を飲んだ乾の喉元を、海堂は思わずじっと見てしまう。
「マラソンの途中で無理してトップに踊り出ても、一瞬の拍手がもらえる以外は、
特に価値はない。むしろ疲れるだけだ。問題はゴールにおける評価であって、
それはもっとずっと先のことだと思うんだ」
 眼鏡のレンズの向こう側で、乾の目がやさしく細められる。
「もちろん、俺自身もまだゴールしてないんだけどね。
俺は『走れ走れ』と言うよりは、海堂と一緒に走りたいな」
そう言って、乾は照れくさそうに笑った。
「…………」
 海堂が依然として腑に落ちない顔をしていたので、乾はにわかに心配そうな顔つき
にな
る。
「あ、ごめん。こんなこと言うつもりじゃなかったのに」
「あ、いいえ違います。すみません」
 今度は海堂があわてて言った。
「俺も……一緒に走りたいなって…そんなことを考えていただけです。すみません」
 それから、と、海堂は心のなかだけでつけたす。
 先輩の喉仏にちょっとみとれていただけなんです。
「いっしょに…」
 乾はゆっくりとくりかえした。
「よかった」
 乾が心からのような声で言ったので、海堂は思わず乾の顔を見た。
 まるで、海堂と一緒に走るかどうかがこの先輩にとって重要なことみたいな言い方
ではないか、と思う。
「いいことですか?」
「いいことだよ、勿論」
 乾は海堂の視線をきちんと受けとめてから正面にむきなおり、自信をもって言う。
 こういうのはすごく、くすぐったい。
自分の一言で先輩がこんなに嬉しそうにするなんて。
 海堂はひどくどきどきし、もう飲みたくなかったお茶をもう一口啜る。
 弁当を食べ終わるまで約十五分。
 その十五分が、今日ほど短く感じられたことがあっただろうか。
 どうしてだろう。
 ああそうだ、と海堂は気づいた。乾先輩が傍にいて、一緒にご飯を食べてくれたか
ら。
 励ますように話を途切れさせず、自分の呼吸に合わせてくれたから。
 時間というものは一定に流れているものだけれど、心の有り様によって、
 長かったり短かったりするものなのだ。
 感謝しているのだけれど、本当は。
 見かけと違って繊細な自分が、こうして心穏やかに話せるのは先輩くらいなのだ
と。
 根っこの部分では、信頼しきっているのに。
 どうしてもっと気楽に言えないのだろう、そう思う。
 しかし、もって生まれた性格というのは、なかなか修正することができない。

「そろそろ昼休みも終わるな」
 今日は海堂と話せて楽しかった。満足そうなため息をついて乾が言い、そののんび
りし
た声をききながら、海堂は指をくわえる。
 ばかばかしいと自分でも思うのだが、タイミングをはかっていた。お礼を言うタイ
ミン
グだ。いま言わなくては、と、眉根を寄せてため息を吐く。
「しわ」
 乾の白いつめたい指が、いきなり眉間をなでた。
「憂鬱そうなため息」
 無遠慮な言葉も、乾先輩が吐くとむしろ誠実に響く、と海堂は思った。
 誠実に、そして優しく。
「そんな顔も悪くないけどね」
 笑いながら言う乾先輩を率直で親切だと思いながら、しかし憂鬱の理由を考えると
依然
として気が塞ぎ、海堂は空の弁当箱をつかむと立ち上がった。
「すみません」
 でくのぼうのようにつっ立って、でも海堂の口をついてでた言葉はそれだけだっ
た。
「謝ることはないよ」
 乾はもう一度微笑んだ。
「海堂は真面目だね」
 海堂は何も言えなかった。この先輩の口調はどうしてこうも人をほっとさせるのだ
ろう、
 と思う。率直だけど無遠慮ではなくて、声自体が海堂を無防備にする。
 うらやましかった。
 こんなふうに自分の気持ちを、まっしぐらに、ストレートに、悪びれず言えたな
ら、どれだけいいだろう。



「今日は…あ…ア、アリガトウゴザイマシタ」
 海堂にとっては縋ったも同然の、やっと言ったひとことだった。
 おどろく乾の視線を遮断するように、海堂はいそいでまぶたを閉じる。
「…先輩が…いちばんいい。……先輩といると落ち着く」
 言葉がどんどん湧き上がり、こぼれた。吐きだされるのを待っていたかのように。
 

その言葉は、乾のどこかに触れてしまった。
触れるというより、即座にしみこむという感じだった、
と、乾はあとから何度も思いおこすことになるのだが、このときにはともかく
そのまぶたに唇を落としていた。かわいくてたまらないというように。
「信じられないかもしれないけど、俺も海堂といる時がいちばんいい」
 そう言って、いきなり抱きすくめた。
「え」
 海堂はすっかり動転した。
 信じられなかった。それで海堂はそうつぶやいた。信じられない、と。
「俺も信じられない。信じられないけど、でもほんとなんだ」
 髪に顔をうめて乾が言う。身動きできないほど強い力だ。
「これでも必死に耐えてるんだからね」
 痛い。そう言いそうになって言葉をのみこんだ。肺が圧迫されて息ができない。
 なじみのない先輩の皮膚の感触、匂い、そして温度。
 乾貞治というのはこんなにも力の強いものだった。
「好きだ」
 乾の声は信じられないほど熱っぽく真剣で、それは海堂の体じゅうを麻痺させた。
 胸が苦しくなる。

「……お…俺も」
 その単純で稚拙な言葉で、乾はとたんに花が咲くような笑顔になった。

「…ああ、どうしよう。俺は欲張りだから、欲しがらないようにしていたのに。
一度手に入れると、手放すのが怖くなるから」
 そう言って海堂を抱きしめる乾の、真剣なまなざしと、情熱をおし殺したような声。
 ほとんど思考の停止した状態の海堂の耳に、それでも乾の声はやわらかく届く。
 この先輩の、この声にも惚れたのだ、と、なぜだか過去形で思った。
「困ってる?」
 心配そうに尋ねられ、海堂は一瞬言葉につまった。
 そして、いやでも認めないわけにはいかなかった。
 声だけで、この先輩は自分をこんなに困まらせることができると。
「海堂」
 ごくわずかに躊躇して、やさしい声で呼ばれる。その声の温度が好きだ。
 たったその一言で、海堂の体は熱くほてってしまう。

「乾先輩」
 海堂は、海堂にしかできないやり方で、その名前を発音した。
 あらゆる想いを。誠実に、愛情をこめて。

――――俺も好きです、と言うかわりに、片手で乾の頬に触れながら唇をふさいだ。




                                     
【終】







*作者コメント*

祝!薫風祭v
思いっきり砂を吐いてください(爆)。
実は、反町さんのところで10時間だけUPされていたのですが・・・。
あまりにも人様のところでカキコむのでどうかと自主削除(;^△^)。
こちらに参加させていただきますvv